ナイルの向こう側

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【考察】ミュウツーの逆襲EVOLUTION

ミュウツーの逆襲EVOLUTION観てきました。
初代ポケモン映画をフルCGリメイクということで建物や技のグラフィックはハイクオリティでした。(原作ゲームもこれくらい美麗だったら)
ストーリーはほぼ一緒、台詞まで原作再現。
この点は賛否両論といったところか。

ミュウツーの逆襲は名作(迷作)?

初代ポケモン映画のミュウツーの逆襲はとても癖の強い作品だ。
「人に造られたポケモンミュウツーが自分の存在意義を求めて奔走し、造物主である人類に逆襲する」というストーリーなのだが、これがかなり難解である。
ミュウツーは劇中幾度にもわたり「私は誰だ?何のために造られた?」などと疑問を抱き悩む。
結末はというとミュウツー

我々は生まれた、生きている、生き続ける、この世界のどこかで *1

という台詞と共にポケモンのクローンたちを連れてどこかへ飛び去っていくもの。先の疑問に対してはっきりとした答えが明示されずに終わってしまう。
ポケモンのメインターゲットである子どもたちには難しい内容なのだ。
筆者も子どもの頃原作を観たのだが、残った印象は"ミュウツーが怖い"ということくらい。クローン技術なんて分からなかったし、ラストシーンも意味不明だった。大人になってから本作について考えてみて実は様々な見方ができるということにようやく気づいたのだ。

本作の見方として考えられる事柄

ミュウツーは研究所、ロケット団と二度にわたり人の支配を退けた、つまり、人が生み出した生物が人を超えてしまったのだ。人類への逆襲は、野放しになったクローンが引き起こすバイオハザードと見ることもできるだろう。遺伝子操作による優れた個体の生成及び弱者の存在意義の否定は優生学的思想に結びつく。ポケモンたちの争いを人(サトシ)が鎮める終盤のシーンはポケモンと人の関係を思わせる。
「命」「思想」といった非常に重いテーマであることがわかるだろう。

子どもに分かりづらいことは確かだが"ミュウツーが格好良かった"と映る子もいるだろう。これも一種の見方であって子どもにとってはこれがこの映画の評価となる。

ラストシーンのミュウツーの台詞について"生物は生きていることに十分に意義があると気づいた"という見方があれば"未だに答えを見出せず旅に出た"と見ることもできる。


ミュウツーの逆襲」の魅力とはなにか?個人的な見解だが、映画を観終わった後単に"面白かった"だけでは終わらない様々な感想や考察が生まれるところにあるのだろうと考える。

どのポケモンよりも人間らしいポケモン"ミュウツー"

ミュウツーは自分を造り利用した人類を憎み逆襲を決意する。
しかし、彼の言動はとても人間らしいのだ。

人間は悩む生き物だと考えている。自分の価値について悩み、社会に存在をアピールして価値を見出そうと努力する。ミュウツーの場合は最強のポケモンとして造られたため、力を持って自己の存在を世に知らしめたのだ。最強であることに拘りを持っているあたりは製作者の思想が影響している可能性も考えられる。
造物主であるフジ博士は研究所を破壊される際にこう言い残している。

世界最強のポケモンを作る……それが私達の夢だ*2

さらにミュウツーは、ニューアイランド島に実力者を集めて、彼らの持つ強力な個体からコピーポケモンを量産しようとする。その際にミュウツーはなんとモンスターボールを使用する。デザインは全体が黒く中央のスイッチは目のようになっていて怪しげな意匠を放つ。しかも性能はマスターボールと同等な上、モンスターボールに入ったポケモンをボールごと捕獲することもできる。そして、捕獲されたポケモンたちはある装置に運ばれるのだが、その装置とはまさしく自らを生み出した、ポケモンのクローンを造るマシンである。以上のことからミュウツーは人の開発した技術を利用しているのである。
劇中、フジ博士がミュウツーに対して発した言葉がある。

この世で別の命を作り出せるのは、神と人間だけだ。*3*4

クローンを作り出せるのは神か人間だけという意味だろうか。ポケモンであるはずのミュウツーが別の命を作り出しているということは彼は人間か神のどちらかだ。クローン技術で強いポケモンを造ろうとしていたミュウツーの行動はフジ博士らと重なる。結局は人間たちがしてきたことを繰り返しているあたりは最大の皮肉と言えるかもしれない。ここで言う神というのがなんなのかはよくわからない。ポケモンで神といえばアルセウスが頭に浮かぶが劇中では全く触れられないどころか原作が公開された時点ではアルセウスはゲームに登場してないためその線はないだろう。ある宗教上の神か比喩的な意味で使用したのかもしれない。

最後に、興味深いミュウツーの行動としてニューアイランド島に招待したトレーナーたちを解放するシーンがある。彼らの手持ちポケモンを全て奪った後は使い終わったティーバッグのごとく海に捨てようとする。殺すわけではないが助けようともしない。人は好きの反対は無関心というように、自分に利益のあるもの以外には興味を示さない。人並みに倫理観を持つ人間も、殺人は犯さないが見捨てることはある。

コラム

どうして一作目からこれ程難解かつ複雑な内容になったのか?
おそらく、初期のポケモンはまだまだ設定や世界観といった部分が固まっておらず迷走していた時期でもあったからだろう。実はアニメ無印には最終回の構想があって「ミュウツーの逆襲」もその最終回に繋がる伏線の一部だったとか。*5話題が逸れるため詳しくは語らないが、気になれば各自で調べてもらいたい。
「水の都の守り神 ラティアスラティオス」以降のポケモン映画は比較的明るくポケモンの愛らしさや格好良さを重視した作風になる。しかし、2017年に公開された「キミにきめた!」と翌年の「みんなの物語」の二作は再び初期を思わせるメッセージ性の強い作風となった。そして今年の「EVOLUTION」に繋がるわけだが、これらはポケモン映画20周年を記念して当時子どもだった世代を意識した大人向けの異色作と言える。

参考文献

*1:http://omnamahashivaya.info/archives/726.htmlから引用

*2:https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%83%84%E3%83%BC%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2から引用

*3:http://omnamahashivaya.info/archives/726.htmlから引用

*4:引用元ではサカキの台詞として掲載されているがEVOLUTIONではフジ博士の台詞である。

*5:https://www49.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/30315.html参照